英語の表現で「See you in court!」というがある。
日本では「出るところに出てやる」というのが一番近いだろうか。
怒り心頭に発した時、喧嘩の捨て台詞として良く登場する。
あるいはビジネス交渉が決裂した結果、「この決着は裁判で」という主旨で冷ややかににどこかのCEOが言い残してその場を去る場面も想像する。
アメリカは訴訟社会。確かに訴訟件数は他国に比べ圧倒的に多い。
全人口に占める弁護士の割合はなんと、300人に一人。対して日本は合格率5%の司法試験のに難関を経た弁護士先生は、5500人に一人。
弁護士が沢山いるとしても、裁判システムそのものがオープンだととしても、基本的に訴訟を進めるのは非常に大変なこと。適切な弁護士探し、訴訟提起への準備、裁判前の証拠集め、証人尋問への対応。。。どんなに頑張っても数年を要するプロセスだ。勢いで宣言した訴訟も、その過程が長引くうちに怒りは冷め、状況が変わって「どうでも良くなる」こともあるだろう。
それでも最後の最後まで根気よく訴訟プロセスに付き合う。裁判の結果が不服だった場合には上訴を続け、最後は連邦や州の最高裁判所まで持ち込む。発端は一個人の「事故」や「文句」が長い裁判の結果、最高裁判所の判断にゆだねられるところまで行く状況は決して少なくない。
アメリカの法体系は「判例法」に基づく。つまり、過去の判例が法的判断の基準を作る。よって、弁護士としての基礎教育はまず判例を読み、解析し、その判例が意味する法律を理解することから始まる。ロースクール(法科大学院)の教科書は基本的に「判例集」である。解説はついていない。解説は授業の中で展開される議論や教授の「誘導尋問」のような講義から読み取るものだった。
というわけで大学院生とした読んだ判例は法解釈のことばかり頭にあったが、実はここに非常に興味深いアメリカ社会の描写もあるのだ。この原告はどうしてここまでこだわって最高裁まで粘ったんだろう。粘ったあげく、敗訴した後はどうなったんだろう。そもそも裁判に持ち込むまでもなく、裁判以外の場で解決できなかったのだろうか?そんな観点から読むと、とても面白い。そしてどの裁判も、ヒューマンストーリーから生まれている。複雑な法律論議とは全く別の、人間ドラマ模様。
個人的意見/偏見も含め、昔のロースクール時代の資料をひもといてみた。
最近の裁判も「どうしてこんなことが。。。」という内容もある。
アメリカ社会を反映する数珠玉的ストーリーがそこにあるはず。

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